強欲資本主義と民主主義

映画監督マイケル・ムーア氏が、ドキュメンタリーの新作で、今日の米国の資本主義を検証した。ムーア氏は「強欲」を省みて、立ち返るべきは民主主義の理念だと主張する。
(日本経済新聞夕刊2009年12月16日16面)

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立ち返るべきは米国建国以来の理念、「自由と平等」を尊ぶ「民主主義」だとムーア氏は言う。

資本主義に懐疑的な発言をすると、米国ではすぐに「では、君は社会主義なんだね」という反応が返ってくる。だが、富を一部の人で独占すべきではないのかと思うか。だれもが同じテーブルにつき平等に発言する権利を持つべきだと思うか。社会の仕組みから脱却した人々にセーフティーネットが必要だと思うか。そのすべての質問にイエスと答えるのは、社会主義というより民主主義の理念だと僕は信じている。

僕は不平等の行き着く先が恐い。米国の貧しい人々は今怒っている。爆発して革命なんてことになったら困る。映画の中にもサブプライムローンの破綻で自宅から強制退去させられ、怒っている家族が登場するが、彼らは銃を隠し持っていた。僕はあの銃が永久に使われず、しまわれたままでいてほしい。そのために世の中の1%じゃなく、大多数の人が安心して生活できる民主主義的な政策を国が打ち出すべきだと訴えている。
(前掲紙)

米国は現在の体制を民主的に選択しており、にも関わらず重要なのは「資本主義」ではなく「民主主義」であるという主張は具体性に欠けると思います。

先日のエントリー12月15日”ユニクロがデフレの元凶なのか?”の中で、ロバート・B・ライシュの「暴走する資本主義」(Supercapitalism)の一節をご紹介しました。

「私たちは「消費者」や「投資家」だけでいられるのではない。日々の生活の糧を得るために汗する「労働者」でもあり、そして、よりよき社会を作っていく責務を担う「市民」でもある。現在進行している超資本主義では、市民や労働者がないがしろにされ、民主主義が機能しなくなっていることが問題である。」

重要なのは相対的にないがしろにされている「市民」の復権でしょう。岩井克人氏の「資本主義から市民主義へ」(新書館)はまさにそこをテーマにしています。

「ぼくはいま市民社会論に足を突っ込み始めているのですが、そのためにはまず最初に資本主義の枠組みのなか、私的所有権の世界のなかでどれだけ言えるのかを確定する必要があると思って、それで、会社の二重構造論から、株主主権論を批判し、経営者について信任論を展開し、ポスト産業資本主義における利潤の源泉がヒトであるという議論を提示してみたわけです。このような議論は、すべて資本主義の枠組みのなかでここまでは言えるということをやっているわけです。

たとえば、ポスト産業資本主義におけるヒトの役割の重要性を強調している場合でも、それは、心優しく従業員のためを思うヒューマニスティックな経営者がいいんだというような議論を展開しているわけではありません。あくまでも、ヒトを重視しなければ、会社はポスト産業資本主義のなかの競争で負けてしまうと言っているだけです。

ただ、一歩、社会的責任論に足を踏み入れると、単純な私的所有論の枠組みをちょっとはずれてきます。ぼくの市民社会論は市民社会の定義がまだはっきりしていないんだけど、現在のところとりあえず、市民社会とは資本主義にも還元できなければ国家にも還元できない人間と人間の関係であると定義しています。資本主義的な意味での自己利益を追求する以上の、何か別の目的をもって行動し、国家の一員として当然果たさなければならない責任以上の責任を感じて行動する人間の社会だということです。それが社会的責任だと思います。」

国家へ依存するのではなく主体性がある分だけ、僕は岩井さんの主張に賛同できます。

資本主義から市民主義へ
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